野口英世の不滅の精神

野口英世は1歳半の時に囲炉裏に落ち、左手に大やけどを負います。左手の指は癒着し、物を持つことができなくなってしまいました。そんな英世の左手を見た子供からからかわれることも多く、悔しい思いをしたそうです。

その思いをバネに英世は必死で勉強をします。しかし英世の家は貧しく、勉強のための紙を買うこともできなかったといいます。それでも英世は諦めず家の障子紙を使って勉強をしたのだそうです。そうして英世は優秀な成績を修め、その成績が認められ進学することができます。

障害を持ちながらも英世の頑張る姿を見た先生や生徒が募金を募り、左手の手術を受けることができます。その手術を受け指が使えるようになったことから、英世は医者を目指します。傷害がありながらも諦めない不滅の精神は、こういった幼少期から培ってきたものなのでしょう。そういえばそこに何かいるっ!!!かもしれませんね。

英世は生涯に数々の論文を発表し、ノーベル賞にも3度候補にあがります。病原体の特定など、人の死と隣り合わせの出口の見えない研究をし続け、毎日の睡眠は3時間ほどだったとも言われています。何事も諦めない不滅の精神があったからこそ、野口英世は素晴らしい功績を残し、現在の医療に多大な影響を与えることができたのかもしれません。

野口英世の母

野口英世にとって母・シカは、とても大きな存在でした。英世は一歳半のときに囲炉裏に落ち、左手に大やけどを負い指が癒着してしまいます。シカは、自分の不注意でやけどをさせてしまったと悔やみ続けます。

そして人の何倍も働き、英世に勉強をさせました。シカは英世に、学問を頑張るように優しく諭し、できるだけ勉強をしやすい環境を整えたといいます。英世も母の気持ちに応え、一生懸命勉強をします。その努力の甲斐があり、高等小学校へ進学することもでき、またその後も医師を目指して上京することもできるのです。

そしてシカは非常に努力家でもありました。シカは農作業のかたわら産婆をし生計を立てていましたが、その後産婆の免許取得が義務付けられます。しかしシカは読み書きができませんでした。近所の住職に頼みこみ読み書きを教わり、見事国家試験に合格したという逸話も残されています。この時覚えた文字を、数十年後に思い出しながら書くこととなります。

アメリカにいる英世に宛てた手紙です。その手紙は現在も福島県にある野口英世記念館に展示されています。たどたどしい文章の中にも、英世を想う母の気持ちがこもった手紙です。英世の努力家なところは母親譲りなのかもしれませんね。

野口英世の妻

野口英世は、ニューヨークで知り合ったアメリカ人女性のメリー・ダージスと1911年(明治44年)に結婚しました。メリーは炭鉱で働く父・アンドルーと母・フランセスの長女としてアメリカ・ペンシルベニア州に生まれました。メリーはハイスクール卒業後、英世と結婚する10年も前からニューヨークに移り住み演劇に携わっていたといわれています。

英世との出会いはレストランでした。ちょうど英世がデンマークに留学する前だったといわれ、帰米してメリーと再開し、交際を深めていったようです。結婚は英世が34歳、メリーが35歳のときです。結婚後、英世は数々の論文を発表し、ノーベル賞の候補に三度もなるほどの大学者となりますが、メリーはそんな英世を妻として献身的に支えました。

夫婦仲は良かったそうです。英世が亡くなってからは、英世の遺した財産を処分し年金でひっそりと暮らしたそうです。そして英世の遺品は全て野口英世記念館に寄贈し、英世の遺志を継ぎ、家族と恩師の小林家に仕送りを送り続けたといいます。1947年(昭和22年)動脈血栓により71歳で亡くなりました。

英世との間には子供はおらず、姉・イヌの長男を養子にしたともいわれていますが詳細は不明です。

野口英世の生家

日本人のみならず、世界中で有名な細菌学者野口英世は、北に磐梯山、南に猪苗代湖を望む福島県耶麻郡翁島村(現在の猪苗代町)に生まれました。

英世が医師を目指し上京するまで19年間住んでいた生家は、現在野口英世記念館の一部として現存します。(観覧料金大人500円)茅葺き屋根の平屋建ての建物は、現在の住宅事情からすれば随分大きな家に感じますが、典型的な貧しい農家の家屋です。そこには、英世が一歳半のときに落ちて大やけどを負うことになる囲炉裏や、上京するときに英世が自ら床柱に刻んだという決意文もそのまま残されています。

英世の生家は文政6年(1823年)に建てられたといわれ、実に200年近くが経とうとしています。随分老朽化が進んでいましたが、英世の没後は野口英世記念館として今でも大切に保存され、多くの人々が訪れています。記念館には、英世の遺品や研究功績、趣味の品など様々な展示もされており、野口英世を知る上で一度は訪れたい場所です。

2011年3月11日に起きた東日本大震災で福島県は甚大な被害をうけましたが、幸いなことに野口英世の生家は大きな被害もなかったようです。きっと英世の不屈の精神が震災復興の指針となり、英世の生家が復興のシンボルとなることでしょう。

野口英世の少年期について

野口英世といえば、日本人ならば誰もが知っている細菌学者です。伝染病研究所を経て渡米し、ペンシルベニア大学医学部で助手をし、その後ロックフェラー医学研究所の研究員となります。数々の論文を発表し、ノーベル賞にも三度候補になっているという、世界中に大きな影響を与えた偉大な人物です。

そんな野口英世という人は、どんな少年期を過ごしていたのでしょうか。野口英世は1876年(明治9年)福島県耶麻郡三ッ和村、現在の猪苗代町に、酒好きで怠け者の父・佐代助と、農業の傍ら産婆をしていた母・シカの長男として生まれます。名前は清作(せいさく)と名づけられました。英世にはお姉さんと弟がいます。

英世は一歳半のときに囲炉裏に落ち、左手に大やけどを負い、指が癒着してしまいます。そのことから農作業をするのが難しく、母に学問を頑張るように諭されます。また左手のことを子供からからかわれ、悔しい思いをしたといいます。悔しさをバネに小学校に入学した英世は、一生懸命勉強を頑張り、優秀な成績を修めたそうです。

勉強だけでなく、少年時は相撲がとても強かったのだそうです。当時尋常小学校から高等小学校へ進学することができるのは、経済的に余裕のある家庭だけでしたが、優秀な成績を認められ猪苗代高等小学校へ進学することができます。在学中に書いた作文が先生や生徒の同情をかい、左手の手術費用の募金が集められます。

その後周りの援助により左手の手術を受けることができます。それによって左手の指が使えるようになりました。このことがきっかけで野口英世は医師を目指すこととなりました。